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□ 雑学(2)……話のタネ □

話のタネ(55) 黄門さまは出不精だった

徳川光圀といえば、通称「黄門様」。

テレビ時代劇で、諸国を漫遊し勧善懲悪のヒーローとして描かれ、長い間、根強い人気を誇っている。
 
光圀は、父頼房と側室久子との間に、寛永5(1628)年6月に生まれた。

幼名を長丸、または千代丸といった。

寛文元(1661)年、水戸藩主になり、元禄3(1690)年、63歳で隠居の身となる。
 
さあ、テレビ同様、助さん角さんを引き連れ、諸国漫遊にの旅へ……となるかというと、それはまったくのフィクションに過ぎない。
 
光圀は、江戸と水戸以外、まったく外に出ていないのだ。
 
彼の名は、諸国を漫遊し勧善懲悪で知れ渡ったのではない。

彼の最大の功績は『大日本史』の編纂にあった。

彼の生涯は、まさにここに集約されるといっても過言ではない。
 
神武天皇から後小松天皇に至る100代の天皇の治世を中心に膨大な資料と卓越した考証でつづるこの書の編纂事業に光圀が着手したのは、明暦3(1657)年2月27日のこと。

そして、この事業は、彼が73歳で他界した後も引き継がれ、実に12代250年を要して、明治39(1906)年に完成したのだった。
 
ただ、『大日本史』の編纂に力を注ぎ、諸国を漫遊することはなかったが、人気テレビ番組「黄門さま」の姿とけっして無縁というわけでもなかった。

たとえば、治水事業や新田開発に積極的に取り組んだり、将軍綱吉の「生類憐れみの令」を厳しく批判するなど、現実の諸問題にも真摯に取り組む名君でもあったのだ。



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