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□ 雑学(2)……話のタネ □

話のタネ(56) 消えた首都・大阪!?

慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見戦争で薩長を主力とする朝廷派が勝利を収め、天皇を頂点とする新政府が組織されることとなった。
 
ところが、250余年の長きにわたり徳川将軍家の奉ってきた一般民衆のなかには、天皇の存在すら知らない者がいた。

天皇の存在を広く知らしめ、新しい時代の到来をアピールする必要があった。
 
そこで打ち出された方策が、遷都である。

1868年1月23日、大久保利通(参与=大臣)は、遷都の建白書を提出し、遷都先として大阪を主張したのだった。

これに基づき、新政府は、2月28日に大阪親政の詔勅(天皇が意志表示した文書)を出した。

首都は大阪となるはずであった。
 
ところが一方、江戸城は開城されたもの、上野には旧幕府の連中がいすわり、東北の列藩は抵抗の姿勢を崩していない状況にあった。

かりに、大阪を都とすれば東に反乱の火の粉を残すことにもなりかねない。

外に目を転ずれば、欧米各国が虎視眈々とツメをといでいる。
 
このような状況をにらみ、江藤新兵が、大阪ではなく、「江戸を東京と改め遷都すべし」という建白書を提出した。

それまでの中心地に実際に乗り込んでいくことで、主権者の交替を内外に強く印象づけようというわけだった。
 
大阪遷都論者だった大久保利通らも、江藤の考えに賛成した。

ここに、あっけなく大阪遷都案は消滅した。
 
7月17日、江戸は東京と改められ、8月27日には明治天皇の即位の大礼が催され、9月8日には年号が慶応から明治に改まった。
 
9月20日、天皇は、2000人以上の親兵を従えて、東海道を東へと向かった。

天皇が江戸城に入ったのは、翌10月13日のことであった。


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