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□ 雑学(2)……話のタネ □

話のタネ(59) 冷酷なる虐殺魔・織田信長

世界中いずこの国も、ときの権力者が過剰な自己防衛心と完璧なる征服欲を両輪に、虐殺を繰り返す残虐な歴史をかかえているものだ。
 
もちろん、日本とて、その例外ではない。多くの権力者が、血なまぐさい蛮行を繰り返している。
 
なかでも、弟や叔父さえも殺害した信長の冷酷非道ぶりはきわだっている。

肉親ですら血祭りに上げる信長である。

他人ともなれば、すさまじいことこのうえない。

とにかく徹底的に殺し尽くしているのだ。
 
1537年、摂津から播磨の一帯で勢いをふるっていた荒木村重が謀反を企てという理由で、信長は出兵する。

ところが、村重は、側近をつれて毛利に逃げ込んでしまった。

激怒した信長は、残されていた女子どもら122人を一度に磔に処した。

さらに女らの召使いであった男女512人を4つの家に押し込むと火を放ち焼き殺したのだった。
 
1571年には、比叡山延暦寺を四方から火を放って全焼させている。

このとき3000人者宗徒が焼死したといわれる。

また、避難した僧や女子どもも片っ端から斬り殺させ、その数1600人にも及んだ。
 
しかし、信長は懲りない。

1574年、近畿周辺を次々と支配下におくなかで、執拗に抵抗を繰り返していた伊勢長島の一向宗門徒に対する殺りくぶりは、それこそ身の毛もよだつものであった。

戦死した門徒は数知れず。

さらに、2万人もの捕虜を1カ所に集めると、四方から火を放ち、一人残らず焼き殺したのだった。
 
歴史の皮肉というべきか、このような信長も、滞在していた京都本能寺で明智光秀により放たれた火の中で、49歳の生涯を閉じることになる。

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