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□ 雑学(1)……英米小史 □

イギリス小史(5)

8 スチュアート朝の時代へ

16~17世紀にかけて、イギリスでは人口が飛躍的に増え、北部や西部では何度も飢饉が発生し、暴動も起こった。

1603年、スコットランド王ジェームス6世は、ジェームス一世としてイングランド王位に就く。

彼は、王権神授説を唱えて、国教会と一体となり、国教に従わない人々を抑圧した。

さらに、王室の財政が逼迫すると、臨時の税金を徴収した。

国民や議会との溝は深まるばかりだった。

この溝は、次のチャールズ2世になって、さらに深刻なものになっていく。

1628年、議会は国王に「権利請願」を提出し、不法逮捕や献金、課税等に不満をぶつけた。

王は「権利請願」を受理したが、翌年反対派の議員を投獄すると、以後11年間にもわたって、議会を開こうとはしなかった。

そして、財政の窮乏解消のため、あの手この手で国民から金をまきあげた。

さらに、国王がスコットランドやアイルランドと対立する中、軍事権や宗教権を奪う挙に出たため、国内は、国王派と議会派との内戦状態に陥った。

最初の2年間は国王派が優勢であったが、オリヴァ・クロムウェルが中心となって国王派に対する劣勢を巻き返して、1649年、国王チャールズを処刑した。

議会派に「清らかな教会」を求めるピューリタンと呼ばれる人が多かったため、この革命を「ピューリタン革命」という。

ピューリタン革命に多いに貢献したクロムゥエルは、カトリックの国アイルランドに遠征し、殺戮などの残虐行為や土地の没収などを行なう一方、貿易上の利権をオランダから奪うために英蘭戦争を勃発させ勝利をおさめた。

1655年にはジャマイカを占領し、カリブ海、北米大陸進出の足場を築いた。

また、彼は、軍部の力を背景に護国卿という地位に就き、自ら国王として君主制への移行をもくろんだが、その夢かなわず、1658年、病死した。

9 名誉革命

クロムウェルの死後、その子リチャードが跡を継いだものの、イングランドは無政府状態に陥った。

事態の収拾をはかるためには王政復古以外に道を見出すことができなかった。

そこで、フランスに亡命していたチャールズ2世が帰国し、王位に就くことになった。スチュアート朝の復権である。

亡命中、従弟のルイ14世の世話を受けた根っからの親仏派のチャールズ2世は、「信仰自由宣言」を出し、カトリック教徒の重要ポストへの登用や大学のカトリック化などを押し進める一方、プロテスタントの弾圧をはかった。

堪忍袋の緒が切れた議会は、ジェームス2世の娘メアリの夫でオランダ総督ウィリアムスに援軍を求めた。

当時、オランダもフランスと対立していた事情もあって、ウィリアムスはその申し出を受諾し、1668年、イングランドに上陸した。

彼のもとには、イングランド各地の貴族のみならず、国王を守るべきはずの軍を見捨てた兵も馳せ参じた。

国王ジェームスは、戦おうともせず、フランスに亡命した。

ほとんど血を流すことのなかったことから、この革命は「名誉革命」と呼ばれた。

空位となった王位には、ウィリアムスが推挙された。
ウィリアムス3世の誕生である。

ウィリアムスは、即位するにあたって、のちに「権利章典」と呼ばれる、国王の専制を制限し、国民の権利や自由を尊重する「権利宣言」に署名した。

以後、最終的な意思決定は議会が行なう議会主権体制が続くことになる。

1702年、ウィリアムス3世の跡を継いで、ジェームス2世の王女だったアンが即位する。

このとき、一定の議員数をスコットランドに割り当てることで、両国は合併することで合意した。

ここに、イングランド、ウェールズ、スコットランドが、それぞれの自立性を保ちながらも統合されたわけである。

1714年、アン女王には後嗣がなかったため、女王が没すると、ジェームズ一世の曾孫で、ドイツのハノーバー選帝卿(中世ドイツ=神聖ローマ帝国により皇帝選挙の権限を与えられたもの)であるゲオルクがジョージ一世として王位に就いた。

スチュアート朝からハノーバー朝への移行である。

新しい王は、英語が話せず、イギリス事情にも疎かった。そのため王の委任を受けた内閣が、王にかわって政治を動かさざるを得なかった。

1720年、中南米への奴隷供給を目的として設立した南海会社が、実は実体のない架空会社だったことが明らかになり、投資していた地主や商人は大混乱に陥った。

この事態を鎮静化したのが、ロバート・ウォルポールだった。

彼は、大蔵大臣に任命され、事実上の首相として政権を担った。

彼の政権担当時代は「ウォルポールの平和」とか「ロビ・ノクラシー」と呼ばれ、貴族院、庶民院からなる議会の信任も厚かった。

しかし、1739年、オーストリアの継承戦争に巻き込まれ、彼は議会での指示を失った。

彼は、まだこのとき、国王の指示は得ていた。
しかし、自ら辞職する道を選んだ。

内閣は、国王にではなく、議会にこそその責任を負うという「議院内閣制」がここに誕生した。

1760年、ジョージ2世亡きあと、ジョージ3世が王位に就いた。

彼は「王の友」という党派を結成させて、自分の息のかかったものを議会に送り込み、議会の権限を徹底的に押さえ込んだ。

さらに、彼の強圧的な専制政治は、北米の植民地やアイルランドなどにも及んだ。

その結果、国内で暴動が勃発しただけでなく、1775年のアメリカ(13州)独立戦争へと発展し、翌年にはアメリカ独立宣言が発せられた。

ところで、第一次世界大戦中の1917年、敵国であるドイツ系の名称を嫌ったジョージ5世が、王宮所在地の地名をとってウィンザー家を名乗り始めるが、実質的にはハノーヴァー朝が現在も続いている。



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