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□ 雑学(1)……英米小史 □

イギリス小史(7)

●スコットランド



アングロ・サクソン人の侵攻から北部に逃れたブリトン人は、いくつかの小国を形成し、アングロ・サクソン人国家への反撃を試みるが、衰退の一途をたどる。

一方、そのさらに最北部にはピクト人の小国家が分立し、その南西には5、6世紀にかけてアイルランド北部からスコット人が渡り住み、ダルダリア王国を形成していた。

彼らもまた、アングロ・サクソン国家打倒の野望に燃えていたのだった。

主導権を握ったのは、ダルダリア王国だった。

ダルダリアは、ピクト人の間に次第に勢力を浸透させ、ピクト人との統合を果たすと、スコットランド(スコット人の地の意)という名称をいただく王国を形成した。

こうして10世紀に入ると、スコットランドがイングランドと対峙することになるが、イングランドの圧力に抗しきれず、結局、イングランド王の宗主権を認めざるを得なくなる。

しかし、11世紀はじめ、マルカム2世のとき、イングランドに侵攻し、今日のスコットランドの領域にまで領地を拡大した。

次の王となった孫のダンカン1世は、マクベス(シェイクスピアの戯曲で有名)に殺されてしまうが、その子マルカム3世がマクベスを葬り再び王位を取り戻す。

マルカム3世は、カレドニアのほとんどすべての国を服属させ、スコットランド王国の土台を固めた。

ノルマン人がイングランドを征服すると、イングランド王に臣従する立場をとり、その関係は13世紀まで続いた。

しかし、ケルト系の王家が断絶すると、イングランドのエドワード一世がスコットランドの王位継承に口を挟みはじめた。

スコットランド人が反撃ののろしをあげると、エドワードは、武力でそれを押さえ込もうとした。

しかし、イングランド王家と敵対関係にあったフランスのカペー王家の協力をとりつけて抗戦するゲリラを制圧することはできなかった。

このときのゲリラを率いたノルマン系戦士ロバート・ブルースは、後のスコットランド王室スチュアート家の先祖である。

1328年、ノーサンプトン条約によって、イングランドからスコットランドの独立が認められ、独自の王室と教会をもっていたが、1707年に至って、イングランド王国と合併をする。

ちなみに、いまのエリザベス女王の母であるメアリー陛下はスコットランド王室の出身である。


スコットランドも、イングランド人にとっては偏見の対象だった。

18世紀の文学者が完成させた英語辞書で「カラスムギ」をとらえて、「イングランドでは馬が食べ、スコットランドでは人が食べる」と解説している。 

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