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□ 雑学(1)……英米小史 □

イギリス小史(11)

16 第一次世界大戦

(1901年1月、イギリスの栄華の終焉を予告するかのように、ビクトリア女王が、この世を去る)

ドイツとアメリカの発展ぶりはめざましかった。

かつては世界一を誇ったイギリスの工業も、両国の後じんを拝した。

ドイツやフランスが、国力の強化のために、それぞれ他国と同盟を結んでも、イギリスは、インドとアフリカの植民地支配に没頭した。

しかし、1900年にドイツが海軍力の増強に乗り出すと、世界の海の覇者を自負するイギリスも黙ってはいなかった。

両国の軍艦建造競争が始まった。

軍拡のしわ寄せをうけた労働者は、大規模なストライキを起こした。

国王の馬に身を投げ、死をもって参政権を求める女性もあらわれた。

1914年6月、サラエボでオーストリアの皇太子夫妻が、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起こった。

この事件は、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国と、ドイツ、オーストリア、トルコなどの同盟国の間の大規模な戦争へと発展した。

イギリス国内には戦時体制が敷かれ、志願兵が集められた。

植民地からも物資や人員が集められた。インドからは150万人もの人間が戦場に送られ、6万人以上が戦死した。

1916年には、徴兵制もスタートした。

大戦が始まると、日英同盟を理由に日本も参戦し、太平洋のドイツ領を占領していった。

1917年には、それまで中立を保っていたアメリカも連合国サイドで参戦したため、同盟国側は次々と降伏していった。

1918年11月、ついにドイツも降伏し、四年間にわたる戦争に終止符が打たれた。

本国から集められたイギリス兵の死者は75万人にのぼった。

戦前、世界一の債権国だったイギリスは、巨額な戦費をアメリカに借りたため、戦後一挙に債務国に転じた。

失業者の数は200万人に達した。

インドでは、戦争終了後自治を認めるという約束を反古にしたイギリスに対して、大規模な独立運動が起こり、徐々に自治制度を認めていくことを容認した。

しかし、民衆の弾圧政治に対する怒りは鎮まらず、抗議する民衆に対して、イギリスとインド政府は「アムリットルの大虐殺」を行なった。

アイルランドの独立運動も激化する一方だった。

独立運動に対して「ブラック・アンド・タンズ」と呼ばれる武装警察は、残虐なテロ攻撃をしかけた。

イギリスは、アイルランドを南北に分断することで事態の収拾をはかった。



17 第二次世界大戦前夜

大戦後、保守党との連合を解消した自由党は凋落の一途をたどった。

かわって労働党が大躍進した。

1923年には自由党の協力を得て、マクドナルドを首相とする第一次労働党政府を立ち上げ、二大政党の地位を確固たるものにした。

1929年、アメリカに始まった世界恐慌は、イギリス経済にも大打撃を与えた。

かつて「世界の工場」を支えた綿業や造船業、石炭業などの伝統的輸出産業が集中した地域の労働者たちの生活は悲惨だった。

失業、低賃金、結核の伝染が彼らを苦しめた。

不況地帯からロンドンを中心とする南西部に向かう「飢餓行進」が繰り広げられた。

逆に、大多数を占めるその他の地域の就業者、中間階級は、食料や住宅事情も大幅に改善され、消費水準も格段に向上するという皮肉な現象がみられた。

1930年代に入ると、日本、イタリア、ドイツなどのファシズムが台頭してきた。

軍備を増するゆとりがないイギリスは、当初、自国植民地の権益が脅かされないかぎりは譲歩する「宥和政策」の立場を貫いた。

ちなみに、日本の満州侵略に国連で最も同情的な立場をとったのはイギリスだった。

しかし、宥和政策は失敗に終わった。

ファシズム諸国の侵略は、ますます激しいものになっていった。

1939年9月1日、ドイツのポーランド侵略を機に、第二次世界大戦が勃発した。

チェンバレンから首相の座を引き継いだチャーチルの強力なリーダーシップのもと、挙国一致内閣が組織された。

第一次世界大戦のときと同様、植民地から物資や人員が動員された。

インドからも250万人もの人間が戦場に送られた。

ガンジーらの国民会議派は、戦争への協力を拒否し続け、「イギリスは立ち去れ」という運動を展開した。

1940年6月14日、パリがドイツに占領されると、フランスは降伏した。

イギリス国内もドイツ軍の激しい爆撃にさらされた。

100万人を超える子どもたちが田舎に疎開した。

チャーチルは、大嫌いな共産主義国家ロシアと共同行動協定を結んだ。

中立を保っていたアメリカにも協力を要請した。

1944年6月、米英連合軍は、北フランスのノルマンディに上陸し、フランスを奪還した。

1945年5月7日、ドイツは降伏した。

5年8カ月に及ぶヨーロッパでの戦争は終結した。


18 戦後

イギリスは、戦費を賄うためにアメリカなどから巨額の債務を負った。

パンとじゃがいもが配給制になった。

食肉の配給量は戦時中よりも減った。

しかし、国民は、厳しい統制と窮乏に耐えた。

選後首相の座に就いた労働党のアトリーは、のちに「ゆりかごから墓場まで」と称される社会福祉制度の実現に取り組んだ。

1952年、ジョージ6世が他界し、エリザベス2世が女王の座についた。

経済は次第に復興し、国民の生活水準も高まった。

自由と繁栄がもたらされた。

1957年3月、ローマ条約調印によって6カ国からなるEEC(ヨーロッパ経済共同体)が結成された。

しかし、イギリスはこの条約交渉への参加を拒否し、EECに加入しなかった7カとともにEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)を設立した。

EECの経済力は、EFTAよりもはるかに強力だった。

1963年1月、低迷する経済を打開するために、マクミラン首相はEECへの加入を申請した。

しかし、この申請は、イギリスはアメリカに軸足を置いているとして、フランスのドゴール大統領によって拒否された。

イギリスのEEC加入は、10年後の1973年まで待たなければならなかった。



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