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□ 雑学(1)……英米小史 □

アメリカ独立小史(3)

4 拡大するイギリス植民地

フランスは、1682年に、ミシシッピー川流域をルイジアナ准州と名づけ、フランス領と主張した。

しかし、フランス人は、イギリス人のように定住することはなかった。

先住民との交易の基地に過ぎなかった。そのため、先住民とはおおむね友好的な関係を保った。

ちなみに、ルイジアナとは、「ルイの土地」の意で、ときのフランス王ルイ14世の名からとったものだ。

1700年代に入ると、イギリスが、フランスの交易地域に侵入するようになった。

両国の反目が続いた。

1756年、両国は衝突した。

フランスと先住者が連合したことからフレンチ・インディアン戦争と呼ばれた(ヨーロッパでは「7年戦争」という)。

戦争は1763年に集結した。

イギリスが勝利し、ミシシッピー以東を、イギリスに援軍を送ったスペインがルイジアナ准州を、それぞれ自国の植民地とした。


5 独立国アメリカの誕生

東海岸の13の植民地の人々は、新しい農地を求めて西に移住しようとした。

なかには、ジョー・ワシントンのように土地投機のチャンスをうかがう人もいた。

しかし、イギリス政府は、彼らの移住を禁止した。

その一方で、駐留軍費用を13の植民地で調達しようとした。

さまざまな手をうったが、ことごとく失敗に終わった。

植民地の人たちの強い反発にあった。

そして、イギリスから送る茶に税を付加する方法が最後に残った。

植民地の人々は、多少割高ではあったがオランダの茶を買うことで、これに対抗した。

そこで、イギリス政府は、イギリスの茶を飲ませようと、大量の茶を積み込んだ東インド会社の船をボストンに入港させた。

1773年12月16日、事件は起こった。

アメリカ先住民に変装した50人ほどの男たちが船に忍び込み、次々に茶の入った箱を海に投げ捨てたのだった。

男たちは、茶の荷揚げに反対する茶商人たちだった。

「ボストン茶会事件」である。

この事件をきっかけに「茶を飲まない」運動が起こった。

茶のかわりに、うすめのコーヒーが飲まれるようになった(日本でいう「アメリカン・コーヒー」)。

一方、イギリス政府は、ボストン港を閉鎖する手段に出た。

これに対して植民地サイドは、各植民地の代表者による「大陸会議」を開いて、イギリス商品を輸入しないことを決定した。

1775年4月19日、植民地の民兵組織とイギリスから派遣された軍隊が衝突した。

これを受けて、5月には、大陸会議が再び開かれ、民兵組織に「アメリカ連合軍」の名を与え、総司令官にジョージ・ワシントンを選んだ。

7月には、「独立宣言」が交付された。

本国から独立を勝ちとるための戦争がはじまった。

フランスやスペインがアメリカ連合軍サイドにまわった。

1783年、ついにアメリカは独立を勝ち取り、大陸のイギリスの全領土を手に入れた。

4年後には憲法もできた。

初代大統領には、ジョージ・ワシントンが選出された。

君主を戴かない共和国アメリカが誕生したのだった。

首都ワシントンが完成するまで、臨時の首都が、ニューヨーク、続いてフィラデルフィアに置かれた。

ワシントンで最初の大統領就任式を行なったのは、3代目のジェファソンだった。

当時、ルイジアナは、スペイン本国を征服したナポレオンによって、再びフランスのものとなっていた。

しかし、財政的な困窮していたナポレオンは、1803年、ジェファソンに500万ドルでルイジアナを売却した。

これによってアメリカの領土はロッキー山脈まで拡大され、一挙に2倍になった。


6 先住民への虐待

白人の西部への移住は、同時に先住民の土地を奪うことにほかならなかった。

先住民も、みすみす土地を手放したわけではなかった。

当然、さまざまな抵抗を試みた。

インディアナ州のラフィエットという町に、テクムセという先住民がいた。

彼は、先住民の部族を連合させ、独立国をつくる運動を展開した。

イギリスは、植民地のカナダから武器を供給して、彼らの運動を支援した。

これに対して、アメリカ政府は、1812年、ラフィエットの町を破壊するとともに、イギリスに宣戦布告した。

イギリス将校に任じられたテクムセは、部族を率いて果敢に戦った。

しかし、1814年、アメリカ、イギリス両国の間に和平協定が結ばれた。

テクムセたちの夢は、はかなく散った。

1818年、アメリカ軍は、アメリカの大農園から逃亡してきた黒人に居住地を与え、かくまっていたセミノール族の村々に攻め入り、村々を焼き払った。

アメリカ政府は、責任をスペインに押しつけ、代償としてフロリダ半島をスペインから収奪した。

1820年、大統領ジャクソンは、「先住民は民衆の敵だ」と主張して、インディアン移住法を議会に認めさせた。

ミシシッピー以東の先住民を、西部の荒れ地に設けた指定居住地に強制的に移住させようというのだった。

フロリダのセミノール族は抵抗した。

黒人と力を合わせ、反撃を試みた。

しかし、近代的な武器をもつアメリカ軍に、彼らの力が及ぶはずもなかった。

多くの先住民の血が流れた。

生き残った1万2000人の先住民が、居留地へ連行された。

5カ月にわたる苛酷な長旅だった。

居留地にたどり着いたのは、わずか3000人にすぎなかった。

その後も、白人が西に移動するたびに指定居住地がつくられた。

抵抗する先住民の多くが殺された。

細菌を用いての虐殺も決行された。

白人が持ち込んだ病原菌に、先住民は抗体をもっていなかった。

病気で多くの先住民が命を落とした。

コロンブスのアメリカ到達時、100万人と推定された先住民が、19世紀末には25万人にまで減った。

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