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□ 雑学(1)……英米小史 □

アイルランド小史(2)

3 虐殺の歴史

16世紀中頃から、大陸から多くの宣教師が渡来し、熱心にローマ・カトリックを布教してまわった。

それはアイルランド人のローマ・カトリック信仰の基礎を築くことになった。

エリザベス1世は、アイルランドを足がかりにスペインなどの大陸のカトリック勢力がイギリスに侵攻することを恐れた。

エリザベス1世は、「清掃と植民」と呼ばれるアイルランド政策を推し進めた。

そして、武力によるド弾圧を繰り返した。

おびただしいアイルランド人の血が流れた。

1603年、アイルランド全島がイギリスによって完全に制圧された。

イギリスの法律と慣習がアイルランド人に押しつけられた。

広大な土地が没収され、イギリスからプロテスタントの入植者があらたに送り込まれた。

奪われた土地を奪還しようと、反乱が相次いだ。

1649年、ピューリタン革命を成功に導いたクロムゥエルが、反乱に対する報復を目的に、大軍を率いてダブリンに上陸した。

クロムゥエルは、9カ月のあいだに、聖職者、女、子どもを含む6000人ものアイルランド人を虐殺した。

イギリス軍の将校たちは、我先に土地を奪い合った。

少数派のプロテスタントが、多数派のカトリック派を支配し、迫害した。

1692年以降、異教徒刑罰法が制定・実施された。

カトリック派の選挙権は奪われ、経済活動も制限された。

学校は、イギリス国教会の監督下に置かれた。


3 独立闘争
18世紀後半、ウルフ・トーンは、アイルランド全宗派を統一し、民族として団結することを目指して蜂起した。

トーンは、フランス軍の派遣を要請し、その助けを得て戦った。

結果は敗北だった。

牢獄で、トーンは自ら命を絶った。

1800年、イギリスは、議会を解散させ、アイルランドを併合した。

人々の暮らしは困窮をきわめた。

多くの産業が、イギリスと競合するという理由で禁止された。

飢饉が3年も続き、120万人の餓死者が出た。

10年間で170万人ものアイルランド人が故郷を離れ、アメリカに渡った(元大統領のケネディやレーガンはその子孫である。小説『風とともに去りぬ』の女性主人公スカーレット・オハラもアイルランド系だ)。

1860年のアメリカ移民の38パーセントはアイルランド人が占め、最も多かった。

驚くことに、19世紀の中ごろから1世紀以上にもわたって、アイルランドの人口は減少し続けたのだった。

しかし、それでもなおアイルランド独立を夢みる人々の情熱の炎が消えることはなかった。

1829年、ダニエル・オーコンネルはカトリック農民を組織し、カトリック教徒解放法を勝ち取った。

オーコンネルは非暴力主義であったが、暴力的な激しい運動を展開する者たちもあらわれた。

アメリカ系アイルランド人も資金や武器を送り、独立運動を外から援助した。

19世紀の後半には、ゲール文化復興運動も展開され始めた。

20世紀に入ると、独立運動はさらにヒートアップした。

そして少しずつイギリスから譲歩を勝ち取っていった。

1921年、イギリスは、北アイルランドを切り離すかわりに、南をアイルランド自由国として、その自治を認めると約束し、翌年それは実行に移された。

1937年、北アイルランド自由国は、憲法を制定し、イギリス国王への忠誠宣言を廃止し、アイルランド全島を国土として、国名をゲール語でエール、英語でアイルランドと改めた。

経済は弱体化し、インドやパレスチナでも反英運動にさらされ、ファシズムに対しては宥和政策をとっていたイギリスに、アイルランドを制圧する余裕はなかった。

第2次世界大戦中、アイルランドは、チャーチルの協力要請を拒否し、中立を貫いた。

1949年には、イギリス連邦から離脱し、アイルランド共和国となった。

数百年にも及んだイギリによる侵略、略奪、虐殺の歴史に幕がおりたかにみえた。

しかし、その後も、北アイルランドはイギリスに属し、プロテスタントによる不当な支配のもと、テロと弾圧とが繰り返され、アイルランド人の血と涙は乾くことがなかった。

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