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□ 雑学(2)……話のタネ □

話のタネ(20)ミス・コンは「ミス」ではじまった!?

昨今、日本全国、ミス・コンテストばやりで、○○娘とか、□□ガールなどが、あちこちで誕生している。なかにはミセス・コンテストもある。

ミス・コンテストで、いちばん古いのは、明治17年東京下谷で開かれた「美人共選会」、続いて上野で開かれた「美人品評会」といわれている。

いずれも、くわしい記録は残っておらず、人々の関心も低かった。

それにしても「品評会」はひどい。

これには、おとなしい明治の女性にも、ツノを出す人が多かったんじゃないか。

とにかく、このネーミングは明らかにミス。

明治25年には、浅草で「百美人投票」が行われた。

参加した女性は、新橋や日本橋などの芸者衆100人。

写真を見ての投票方式であったが、これはおおいに人々の注目を集めたらしい。

晴れの1位は、新橋の吾妻(本名・中岡せい、17歳)で、身長は150センチほどだった。

素人女性を対象とした美人コンテストとなると、15年ほど待たなければならない。

明治41年、『時事新報』が行った「全国美人写真コンクール」が、そのはじめである。

アメリカの新聞『ヘラルド・トリビューン』主催のミス・ワールド・コンテストの日本代表を選ぶのが目的だった。

応募の条件は「良家の淑女にして、いやしくも容色をもって職業の資となすがごとき、品下がれる者にあらず」だった。

そして、小倉市長の娘、末広ヒロ子という名の女性が、栄光の座をみごとに射止めたが、学習院女子学部3年に在学中で、校長の逆鱗に触れ、退学させられてしまう。

しかし、翌年1月、シカゴで行われた世界大会に出場し、6位に入賞した。

写真によるコンテストは、昭和に入って戦争前夜まで、盛んに行われていたが、戦争中には、当然のことながら、バッタリ途絶えた。

戦後は、昭和22年の「ミス・東京」に始まり、20年代後半には「ミス・カーニバル」「ミス・脚線美」、はては「ミス・おっぱい」「ミス・逆立ち」のコンテストまであったというから、焼け跡派のヤケクソと思えなくもない。


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