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□ 雑学(1)……英米小史 □

イギリス小史(3)

5 バイキングによる王朝(デーン王朝)

9世紀なかばころから、ユトランド半島(現デンマーク)やスカンジナビア半島に住んでいたゲルマン系のバイキング(イングランドでは「デーン人」、ヨーロッパ大陸では「ノルマン人(北方の人の意)』と呼ぶ)がヨーロッパ各地に大移動を始める。

その波はイングランドにも押し寄せ、すさまじい攻撃力によって、9世紀後半にはイングランド東北部を支配した。

ウェセックス王のアルフレッドは、その地方を「デーンロー(デーン人の法律の意)地方」として、その支配を認めざるを得なかった。

ちなみに、アルフレッドは、『アングロ・サクソン年代記』の編纂を命じるなど、文化振興にも力を注ぎ、「大王」の名声を得た人物である。

9世紀末ころからウェールズ内に分立する小国家の多くがイングランド王を宗主と認め、また10世紀なかば、エドガー王のとき、バイキングが王国に服属し、スコットランドもエドガー王が宗主であると認めたことで、統一イングランド王国がいちおう成立する。

しかし、11世紀に入ってまもなく、デンマーク王子クヌートによって、イングランドは征服されてしまう。

クヌートは、後にデンマーク王位を継承するだけでなく、ノルウェー王にも君臨し、スウェーデンの一部をも支配する、北海を内海とする大王国を築きあげた。

しかし、クヌートの没後、その王朝はまたたくまに瓦解した。

6 ノルマン人上陸

デーン王朝が瓦解すると、ウェセックス家の血を引くエドワードが亡命先のノルマンディから帰国し、王の座についた。1042年のことである。

エドワードの没後、王位をめぐる争いを制した、エドワードの遠縁にあたるノルマンディ公ギョームが、ウィリアム一世として王位につき、ノルマン王朝を開いた。

ノルマンディとは「北方の人の土地」という意味である。つまり、ヴァイキングの住み着いた土地である。

彼らは、フランス王と和議を結び、フランス王に協力するかわりに、ノルマンディの土地を与えられたのだった。10世紀はじめのことである。

では、ふたたびヴァイキングによるブリテン支配がはじまったかというと、そうではない。

ノルマンディに土地を与えられてから150年が過ぎていた。

彼らはキリスト教を信じ、フランス語を話し、フランス文化にすっかり馴染んでいたのである。その結果、イングランド文化のフランス化が進むことになった。

ウィリアムスが没すると、王位継承をめぐり、子らの間で骨肉の争いが起こる。

1106年に長兄を退けて王位についた末子のヘンリ1世は、それまでノルマンディの宿敵であったアンジュー家からジョフロワを迎え、娘のマティルダと結婚させた。

1154年に、その子ヘンリ2世が王位につく。王位継承がアンジューの血統へと移行したわけだ。

ヘンリ2世は、妻がフランス西南部を支配するアキテーヌ家の相続人だったため、父親が征服していたメーヌ、ノルマンディ、それにイングランドを合わせた広大な領地を手中におさめることになった。

巨大な複合国家の誕生である。

ヘンリ2世は、イングランドにおいてさまざまな改革を行った。

なかでも特筆すべきなのが司法改革で、彼が採用した裁判の陪審制度は、今日まで残っている。

巨大な複合国家は、長くは続かなかった。

フランス王フィリップ2世の攻勢を許し、13世紀初頭には、アキテーヌのわずかな土地を残して、大陸のほとんどの領地を奪われてしまうのである。

13世紀後半から、アキテーヌの地の宗主権を主張するフランスと、イングランドは対立を深めていく。

そして、1337年、ついに戦争に突入する。

戦争は、何度かの休戦期間を経て、1435年のアラス和議まで続いた。
100年戦争である。

イングランドは、ドーヴァー海峡対岸のカレーだけを残して全面撤退することになったものの、和議前の20年間、戦況を優位に進めていたこともあって、撤退補償金や捕虜の身代金、略奪などによって莫大な利益を得た。


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